歌舞伎座さよなら7月公演
歌舞伎座に行ってきた。
牡丹亭を見に行ったその日の夕刊に、
ちょうど広告が載っていた。
泉鏡花の戯曲を玉三郎が演じている。
東銀座の東劇から帰る途中見えた時代掛かった建物が、
やはり歌舞伎座であった。
みんな写メなど撮っている。
自分も撮りたかったが、やめた。
さてその舞台。
前半と後半の二部構成。
最初に歌舞伎、『夏祭浪花鑑』
海老蔵、獅童、勘太郎といった配役。
初めてといっていいほどの歌舞伎観劇。
なあるほど、こういうものね。
客席は暗くならない。
始終、ちゃんちきちゃんちきと、楽が鳴る。
裾でてけてけ拍木をならし、
そして、どこかゆっくりな台詞と間があって、
ちゃんばらがある。そして見栄をきって、花道を駆け抜けていく。
つまりこれは今にある日本のお芝居の、原型、おおもとなのだった。
こういうのは日本人として、やはり知っておくべきものであろう。
江戸期の大衆娯楽、義理と人情と粋があり、
押さえ切れぬ情念が事件を起こす。
思いの外生々しい。
これは義父殺しが主題。
う~む。
海老蔵も獅童もかっこよかった。
市川笑猿は綺麗だった。
これならもう一回(歌舞伎を)見てもいいと思った。
*
『天守物語』
歌舞伎役者によって演じられているが、もちろん歌舞伎ではない。
泉鏡花の原作による舞台である。
緞帳が上がって、突如異質な空気がそこにある。
鏡花をそれほど読みつくしたわけではないが、
彼の作品はプロットがあるというより、情景がある、と思う。
理屈でなく、印象である。
そしてそれは限りなく美しい。そして妖しい。
玉三郎はまさにその女主人であった。
これほど鏡花の世界に相応しい人がいるであろうか。
台詞も動きも、芝居すら必要ない。
ただそこに立っているだけ、それだけで、すでにある。
そういう境界を越えてしまっている。
正直言えば、歌舞伎座という舞台には合わない戯曲だと思う。
ことに歌舞伎の後では。
観客も、この舞台に応えるに相応しいものではなかった。
演者と共に、鏡花の世界を支えあうエネルギーに欠けていた。
世田谷のパブリックシアターのような空間だと
良かったかもしれない。
天守の女主、富姫は、犯さざる女性(にょしょう)の象徴である。
そこは触れてはならぬもの、聖域(異界)。
突如現れた図書之介が、その世界を、富姫の心を射止めることによって、
二人と世界は罰を受け、崩壊の危機を迎える。
そこへ神が姿をあらわし、二人を祝福、世界は再生される。
考えようによっては、図書之介がこの世の人ではなくなった、
と見る解釈も成り立つ。
この禁忌に満ちた、危うい、壮絶な美しさが、鏡花の世界なのだろう。
それを玉三郎は身の内に持っている。
素晴らしい。
獅童は好演だった。
図書之介役の海老蔵も悪いとは思わないけれど、
ちょっと平坦だったかなぁ、という気もする。
二枚目の海老蔵は面白くない。
大仰な立ち振る舞い、台詞なしで、雰囲気を伝えるというのは、
やはり高度なことなのであろう。
なにはともあれ、今なおちょっと夢心地である。
機会があれば、ふつうの舞台で見てみたい。
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