『落照の獄』を読んで
小野さんとは、小野不由美さんのことである。
十二国記シリーズ、屍鬼などで知られる。
新作はその十二国記の世界を描いた中篇。
さっそく掲載されている雑誌を買って目を通した。
主題は十二国記のこれまでの主題を引き継いだものでなく、
最近何かと話題の裁判物、それも死刑の是非に関するものだった。
舞台の柳という国では、もちろん裁判員制度はない。
物語では三人の役人が、ある罪人の刑罰を定めるのに
苦悶する過程が描かれる。
罪状は殺人。
しかも誰でもよかった、場当たり的な動機、悔悟の一片もなし、
というもの。
ではなぜ彼らが苦吟したか。
柳では永く死罪が行われてこなかった。
刑罰は犯罪を犯したものを罰するものではなく、
行いを改めさせるためであるという王の決断による。
時が経ち、賢王といわれた現王の治世に翳りが見え始める。
何故に拠るのか定かでないが、国政に熱意を失ったのだ。
そして時を同じく、国情が乱れ始める。
人心の乱れというやつである。
そんな中、いたいけな幼児を理不尽な殺害に及んだ犯人に
民衆はこぞって死刑を望む。
さて、国家の規律を預かるこの三人は、心中穏やかでない。
世の乱れを極刑による見せしめで、果たして抑えられるであろうか。
むしろ死刑の乱発を招き、かえって国政を見失わせるのではないか。
人々が死罪を望むのは、理解できない現実、受け入れがたいもの、
心の不安を、排除するため、臭いものに蓋をして、
一時の安逸を得ようとする無意識の逃避ではないのか。
犯罪は個人の行為であるが、どういう犯罪が起こるかは、
ある意味世相の反映であろう。
だから個人に責任がないとはもちろん言えないが、
個人の問題、ことに心の闇といったもの、
実は全体に繋がっている。
本人に改悛の意、あるやなしやと、とうとう罪人に会いに行った三人は、
その面前で、心ならずも判決を下す。
それを聞いて、男は高笑いを放つ。
あたかも自身が勝者であるか如く。
彼らはいったい何を失ったのか。
力作である。
お決まりの安定を結末に用意しなかった点で、
泰国の行く末を描かず途絶えてしまったままの、
その流れに沿った、とも言える。
俗悪なものを切り捨てることによって、
人々は却って、釜の蓋を開けてしまったのではないか。
予感は暗い。
道端に坐る仏陀が登場しない限り、この世界は救われない気がする。
仏陀ならば、このどうしようもない男を、或いは受け入れ、
弟子にさえ出来たかもしれない。
そうした答えを、小野さんは胸中に用意しているのかどうかは判らない。
本当にそういったものが機能するのか切望するあまり、
あえて過酷な状況に落とし込んでいるような感もあるのだが。
判ってはいるが、納得が出来ない。
そこにジレンマがある、と見た。
煩悶はまだ暫らく、続くことだろう。
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